お茶の間だより

おばさんの呟き

「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」Flags of Our Fathers(2006)

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 「硫黄島」の方を先に見て心が疲れたので、だいぶ後になってから「父親たちの…」の方を見た。

この2作は、アメリカでは有名になった「硫黄島星条旗」というアメリカで有名になった報道写真から派生したアメリカ側と、日本側の物語。

www.dailyshincho.jp

父親たちの星条旗」=写真に映ったアメリ海兵隊員たちがプロパガンダに巻き込まれて人生を狂わされる話

硫黄島からの手紙」=硫黄島で最後まで抵抗して散った日本軍兵士たちの物語

どちらも悲惨。

硫黄島からの手紙」はアメリカ人のイーストウッドが監督したとは思えないほど「日本的戦争映画」だった。
主人公が嵐の二宮くんで、ジャニーズ映画か…と思って見始めたのだが、その二宮くんにしろ、世界のケンワタナベや伊原剛志加瀬亮中村獅童と「いい具合にメジャー」なキャスティングのおかげで安心して見られる内容だったように思う。

おそらく、私は好んで見ないのだが戦争映画、任侠映画のように映画の中で人が死ぬ事が多い映画だと、無名でやけに目立つ人がいると「あっこの人悲惨な死に方するのでは…」と思ったりする。要するに有名芸能人の役なら悲惨な目には遭うまいよ、という見る側の「芸能界の大人の事情を暗黙に了解している」という割とつまんない話ではある。でも、どう作ったって悲惨な絵面にしかならない日本軍の硫黄島の映画を見ようとしてもなるべく悲惨な絵面は見たくない。そういう実録ものはドキュメンタリーで補完すれば良い。
二宮くん演じる主人公は一歩兵で、本土から遠く離れた硫黄島に連れて来られ、もう食料もなく、敗戦ムードが強くなる中で、置いてきた身重の妻とももう会えないと思っている。ただ、メンタルが健康というか平均的若者で、軍人、兵士という自覚がほぼない様子。だから自決を迫られても何とか回避しようとする。この二宮くんの役がとても普通で泣かせようとしてはいないんだな、と見ていて警戒心が解けた。

夏になると戦争に関連するドラマが放映されて、よくある過剰演出、過剰演技が苦手だった。内容的にも違和感はいろいろあったが、今はプロパガンダとかマスメディアの指向うんぬんを語るところではないので省く。

この映画ではむしろテンプレ的「悪い日本軍将校」の中村獅童が何かと怒鳴り暴力を振るい、自分の隊が危うくなると集団自決を強要するのが一人浮き立っていた。栗林忠道役の渡辺謙、西竹中佐役の伊原剛志あたりも格好良すぎる感じはあったが、この映画の原作になるのが栗林の絵手紙をまとめた本であったので合っていると思った。

終盤は息が詰まる思いだった。食料が尽き、仲間がバタバタと死んで行き、退去を重ねて追い詰められるように摺鉢山へ向かう主人公たち。どう見ても、誰一人生き残れそうにない。栗林が殺伐とした中で回想される、戦前アメリカで過ごし受け取った記念の刀にまつわる穏やかな交流場面にこれはアメリカ映画だったんだ、と思った。逆に日本での回想がいかにもセットという感じだったのもあるかもしれないけど、それにしてもきちんと日本人の心情に沿った悲劇映画になっていると思う。 

「父親たちの…」の方は、その硫黄島に圧倒的勢力で乗り込んだものの、主人公たちの隊は日本軍の抵抗や、味方の一斉攻撃の犠牲になったりもし、かなり失われた。ようやくの思いで制圧した後に、当初は大した意味もなく、しかし疲れた身体を引きずって荒野の山の上に立てた旗の写真が、アメリカ全土で知れ渡り国威発揚に良いように利用されていく。

硫黄島からの手紙」が、ほぼ時系列に沿って話が進んで行くのに対し、こっちは一旦見終わってから冒頭を見直さないとわからないほど、様々な回想がランダムに入り込む。おそらく、兵士たちのフラッシュバック的な意味があるのだろうと感じた。思い出したくないのに、そうはさせてくれない。高いところに立たされ、スポットライトを浴び、マイクに向かうたびに彼らの脳裏には血まみれで死んで行った友人や顔見知りの姿が何度も立ち上がっていた、という事なのだろう。

写真はしかも、勝利の時に掲揚されたものではなかったし、その場に居た兵士たちは後ろ姿で判然としない。うち一人はネイティブインディアン出身で、英雄扱いされても飲食店では立ち入りを断られたりするうちに酒に溺れ犯罪者となり、人知れず死んで行く。

というくだりを見ていて、アポロ計画の宇宙飛行士のドキュメンタリーを思い出したりした。この話ほど悲惨ではないだろうが、時の人となり、英雄視され、国中を連れ回された挙句いつの間にか別のニュースに話題は変わり、忘れられる。あるいは他の、報道写真1枚がアメリカに多大な影響を与えたというあの話、この話。

今はインターネットがあって、報道する側がどうやって情報を操作するか、見えないところでどういう思惑がはたらいているか推察されて、皆用心深くなっていると思うがこの時代の人たちはチョロいというか、それだけ新聞、ラジオ、テレビの影響が想像もつかないほど大きかった事を思わせる。

今の時代でも大統領選の経過などを見ていると、日本人の私からはとてつもなく大掛かりで大変な事のように感じる。日本が狭いとか簡単とか言うつもりもないが、日本でさえ年中ニュースでドタバタしているのに、もっと広くもっと多く、他民族で暮らしていて、国の歴史は浅くても移民たちの元の国事情などが複雑に絡み合って出来ているアメリカ…気が遠くなる。しかし実際の政治活動や、宗教家の布教活動などは結局現地へ足を運ぶ事がいまだに有効というのは興味深い。どれだけ労力が費やされるのだろう。「時の人」に期待されるものの大きさは時代が違うとは言え想像するのも恐ろしい。

硫黄島での色味を抑えた荒れた光景と、綺麗な揃いのドレスで彼らを称える歌を歌うコーラスの女性たち、華々しいパレードの極彩色が対照的。一番嫌がっていたネイティブ出身のアイラが耐えきれずに「茶番だ」と食ってかかると、イベントを国から任されているプロモーター(?なのかな、多分)が「これがショービジネスだよ」と言う。
ショービジネス=アメリカの病気なのかもしれない…などと思ったりした。

 クリント・イーストウッドは俳優として好きで、友達に映画好きが多かったので、よくつるんで文芸坐などの2本立て、3本立てリバイバル上映をしている映画館に行った中にも、彼の出演作は多くあったと思う。その当時は愛人ソンドラ・ロックとラブラブで、映画の中でも恥ずかしげもなく二人の濡れ場を入れたりして、別れた後彼女に訴えられたのも知っていたので、映画を作ったり年取っても出演したりと意欲的とされる評価にも、いや結構俗物だよね?と思っていた。でも、この2本はどっちも大真面目で誠実な映画人の視点を見たような気がする。スタッフも良かったのだろうと思う。主役級の俳優たちは、こちらはあまり知られた人は出ていない。同じ隊の仲間に「リトル・ダンサー」の主役だったジェイミー・ベルがすっかり大人っぽくなって兵士として出ていたのくらい。