お茶の間だより

おばさんの呟き

A.I.(2001)

 民放テレビ深夜放映の録画。吹き替え。 


A.I. Artificial Intelligence - Official® Trailer [HD]

私、あまりスピルバーグ名作見てません。「ジョーズ」もやっと昨年見たくらい。
今までの映画のタイトルや、評判を聞くと「大仕掛けのパニックもの」と、「人間の本質を問う感動もの(?)」に分かれる印象ですが、これは

「感動と思わせてエンターティメントもの、ややネタ傾向」

という感じがしました。いや、さすがに2001年ではしょうがないかも。
この頃はまだAIとかロボットがまだ未来のモノであり、かと言って今使えてるかというと全然ですが、ニュースだけを見ているとそれぞれ実用に近くなっていて、やがてテクノロジーが融合して本当の人間型のロボットが実用化されるんだろうなー、という実感がある時代にはなりました。2001年と言えばまだまだパソコン自体普及しているとも言えない時代。Windowsなんか2000とかMeとか…だったような(笑)

ハーレイ・ジョエル・オスメントがなるほどすごい。ちょっと気が弱そうで無垢で無力な少年の魅力爆発。この頃映画立て続けに出てイイ大人たちの涙を絞っていたようですね。
ペイ・フォワード」はネット配信で見てたんですがあれもこの子だったのか…。あの映画はあまり納得行かずモヤモヤした映画でしたが、やっぱり純真さ、愛らしさと庇ってあげたくなるような魅力がありました。

しかもこの「A.I.」に出た時もう13歳くらいにしては幼く、やっぱり今の姿を見ると童顔で背も小さいみたいですね。昔「ベストキッド」という映画で主演のラルフ・マッツィオが当時既に20歳超え、しかも数年に渡ってパート3まで主演を張ったという話を連想しました。

トレーラーではあどけない表情に涙を浮かべて「名演技」っぽいですが、実は何度かブチ切れる場面があるんですが、そっちの方が「無力っぷり」が強調されてて切ないです。

デヴィットを助けるロボット「ジョー」のジュード・ロウも良かった。目の大きなくっきりした顔立ち、ぴかぴかの若さがロボットとして「リアル」で、これはハーレイ君もですが、ああ私は今役者の旬を見ている、と思いながら、今はもうここから10数年が経って、それぞれの俳優は年を取っているだろうに映画の中では永遠に保存されていて、それがロボット役というパラドックスというか、逆にリアリティがあるというか、見ながら妙な気分になりました。

映画としてはどこがヤマかわかりづらい気がする。ひと言で言えば、デヴィッドという子供AIロボットが「人間になるための自分探しの旅」という事なのだろうと…が、旅と言う割に各行程に繋がりがないというか、ヤマへ至る盛り上がりが感じられず、森に捨てられてからの見世物小屋、都会へ、廃墟となったマンハッタンから海中へとオムニバスの物語を延々と見ているような、変なバラツキを感じました。最後の方での物語の総括みたいなのもないし(あったらあったでまた「あからさま」とかネガティブな事言いそうですが私)もしかしてアメリカの田舎→ラスベガス→NYと都会へ行くほど廃墟になっている?みたいな?よくわかりませんです。

そもそも、始まり早々に実際の息子が目覚めて出てくるんですが、デヴィットとは全然違う子っていう。最初にデヴィッドを見た母親は狂乱して狼狽えていたのに、何だったのかというくらい違う顔。
「本物」の方が美形で、ハーレイ君と違って子供の残酷さが際立って演出的にはバッチリ、その後見た目が違う子供じゃないと話にならないんですけど、さんざんデヴィッド君を家に置いてのお試し期間で葛藤した挙句、ついにはデヴィッドを「親として認識する」プログラムを起動してしまうのが、無責任じゃないか?と思ったり。でも、最初のコールドスリープで寝ている息子の顔はよくわからないので、母親もついうっかり…だったのかも知れませんが、感情移入は出来なかった。

もう少し「精神が壊れかけた母親」からの「本当の息子が目覚めてからの戸惑い」や、森に置き去りにする葛藤がもっと強く描かれた方がラストが生きるとは思ったものの、むしろこれくらい自分の都合だけで動き、結局は傍目からは薄情としか思えない行動をするような描き方の方がデヴィッドの「それでも母を慕う」一途さが切なく浮かび上がる、という事だったんでしょうかね。よく洋画で描かれる聖母的な印象はむしろ避けたのかも。

それでもデヴィッドがあまりに人間になりたがるのを見て、人間になったって愛されるとは限らんのだよ…と思い、ハッとして「願いが叶う以前」が本当は一番幸せなのかもなぁ、なんて事を考えたりしていたので、オチ自体には納得でした。2000年の時が過ぎなくてはならなかった理由はよくわからないんですが、アイデア自体はキューブリックから来たと言うし、「2001年宇宙の旅」なんかも無意味に時空の隔たりがあったりしたので、作り手の好みなんだろーな…と思うことに。

私がこの映画で一番グッと来たのは、デヴィットが自分を造った博士の元を尋ねて行くと自分の複製があって、ブチ切れてそれを壊した後、奥へ行くともっとたくさんの複製品、製品化されてパッケージにされた箱が並んでいるのを目撃して本当の自分が「親を慕うだけ愛玩用子供型ロボット」の1つであった事を知ってしまい、絶望して海へ飛び込むところでした。上述と同じく「人間も割とこうだったりするな…」と思ったから。この辺りはセリフもなく、殺伐とした情景だけでデヴィッドの表情がみるみる深刻に曇って行く様は、一つの見どころではあろうと思いました。

それでも最後の自分の幸せを聞かれて、ママと一緒にいることだと答えてしまうデヴィットの一途さが感動を呼ぶのかも知れません。正直そこは私はあんまり、でした。プログラム単純すぎるだろオイ、と。これはまあ、私は女なので人の娘であったし、自分の子供も女の子なので実感がないんでしょうね。実際、デヴィッドの無垢さは今5歳の甥っ子を連想させ、妹が見たらヤバいかもしれん、とは思いました。

あとはこのロボットの動力って何なんだろうなぁ、と思ったりもし、あとは高機能に作られていないロボットってどうよと思ったり、ロボットヘイトの民衆がいるのが謎と思ったり(多分人種問題とかの比喩なんだろう)、あと、デヴィッドが捨てられるに当たって森に連れて来られるのが、日本の森だって怖いけどアメリカ辺りの森って本当に怖いなと思ったりしてました。見てみるとあまり親切な説明もないんですが、多分裏設定みたいなのはあるのかもしれませんね。まあそこまで読み込まなくてもそれなりの感銘を与えてくれました。ラストはむしろ救いがあったように思います。

泣けはしませんでしたがこの程度にドライな方が、後々まで心にグッサリ残らないので逆によかったです。当時見ていたら私はまだ幼児の子育て真っ最中だったので号泣ものだったかもしれません…同じ深夜テレビ放映モノでも「マグノリアの花たち」なんかは感情移入してしまう辛い話だったので、やっぱり家族もの、子供が出てくるものというプライベートを取り上げた映画は見る側の環境によっても違いそうです。

あと、やっぱり日本とは子供の扱いが違っていて、小さい頃から自分の部屋で独りで寝るし、夫婦は自分たちの用事で子供を置いていくし。子供が出てくる海外の映画やドラマを見ていると、その辺のギャップがやっぱり解消出来ないので、本当の感覚とか意図はつかめないのかもしれません。