お茶の間だより

おばさんの呟き

リサイクル

またぼちぼち断捨離再開してます。
最近CDを何枚かディスクユニオンに持って行き、コミック類は駿河屋でネット買い取りしてもらいました。
買取TOP|通販ショップの駿河屋

 diskunion.net

実際の買取査定表の写真が載せられないのが残念ですけど。

私は映画もだけど、コミックや音楽もちょっと古いものが好き。
「ちょっと」と打ってみて思ったけど多分「だいぶ」古いです。

古いものが好きなのは、おそらく子供の頃はお小遣いの範囲で本やコミックを読もうとするとどうしても古本屋や図書館に行く事になり、ちょっと前でも良いものがあったり、私が子供の頃は昼間から夕方のテレビは、古い番組を繰り返し再放送していて、古いもの、一度終わったものを見るのに何ら抵抗がないからだと思う。

自分がそうした「古物育ち」だし、見に行くのも好きだったので、こういう店に置いてもらいたいというのもあります。自分はもうほとんど行かなくなってしまったんですが、買取持ち込みでディスクユニオンに行って、査定を待つ間CD棚の前をうろついていたら久々にワクワクした気持ちが蘇ってしまった。買わないんですけどね…

駿河屋は、過去何回か利用してますがコミックの他にもゲームやグラフ誌の類、古い雑誌やもう売っていないゲーム機までそれなりの値段で買い取りしてくれるし、買い取り価格を自分で検索する事が出来るので、送るための段ボールさえ確保してくればほとんど問題なく済みました。ちゃんと取引のルールを読まないとなりませんが、1度実際に手続きしてみると、案外気楽なもの。

ほとんどが「かんたん買い取り」(=駿河屋のサイトで検索した買い取り値段で承諾する事)でしたが、減額についても同梱物が欠けていたり、本などは焼けがあってこれは値段がつかないだろう、と思って一応同梱したものでも、思っていたほど下げられる事はなくて有難かったです。

ディスクユニオンへ持っていったCDは、ケース汚れだけでも値引きされてしまったので(予想はしてた)今後持って行くものは一旦綺麗に掃除してから持って行こうと思ってます。

売っているものが何もかも消費物になってしまい、どうかするとネットだけで済ませられる物が増え、買取も某古本屋みたいに発行年だけでバサバサと切り捨てられるものだと思っていると、ちゃんと愛好家が集まる市場も存在してるのは有難い。

ネットの発達で欲しかったもの、見たかったものが大抵叶ってしまうからこそ、思い切って断捨離も実行出来るわけで、私は物を買わない方向にひた走ってしまっていますが。それでも、手放せないものだけでもそう何度も楽しんでいないし…と矛盾が解消出来ない部分もあれこれあります。

さて、次はちょっと家からは遠いところにリサイクルショップを見つけて、皿1枚から置いてあったりするので持って行ってみようかと。皿なんかも古い重たいものはベランダで割ったりしてたんですけど、それなりに労力が要る作業なので、引き取ってもらえたら嬉しいなぁ。

「世界のドキュメンタリー ライバルたちが時代を作る」7月まで配信

ys1205.hatenadiary.jp前回のメモで言ってた「ヴィスコンティvsフェリーニ」、ちょうどGYAO!で無料配信されてました。期間限定7月末まで。

「世界のドキュメンタリー ライバルたちが時代を作る」

https://gyao.yahoo.co.jp/p/00025/v12712/

埋め込みタグ見当たらなかった…

他のも面白いです。シャネルVSスキャパレリとか。カラスVSテバルティだけ見ていなかったので見なきゃ。

 

このドキュメンタリーもそうですが、NHKBSで放映される近代史ドキュメンタリーの多くってフランス制作が多いような印象を受けます。
他に、ナチスドイツを取り上げたドキュメンタリーが相当に容赦ないのが結構あって、こういうドキュメンタリーはアメリカ産だとなぜか思い込んでいたのですがこれもフランス制作が多く、フランスってやっぱり欧州の中心国なのねとか、ナチスに侵略された過去があるので(近隣国皆そうですけど)国としてどう感じているか伝わってくるようで興味深いです。

ヴィスコンティvsフェリーニ、やっぱり面白いです。そもそもビジュアルとして対立する二人のおっさん図が面白い。ヴィスコンティは貴族出身の頑固ジジイ、フェリーニは太めのちょっと癖のあるおっさん。このまま映画やドラマになっても良いようないいキャラクターしてます。

左がフェリーニ、右がヴィスコンティ

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ルキノ・ヴィスコンティ

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フェデリコ・フェリーニ

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古い映画もっと見たいなぁ。

GYAO!は配信サイトとしてマイナーになっちゃってますが時々とんでもない名作が無料配信されているので侮れないです。と言っても最近私も見てませんでした。1年かけて放映されるようなアニメを一挙配信とか本当に生活壊れるんで止めて欲しいです。

装甲騎兵ボトムズは意地で見た/銀河英雄伝説は3話で挫折した)

最近見た映画

録画消化してました。結構見たので簡単にメモ

「山猫」
「ベニスに死す」
ルキノ・ヴィスコンティの名作2つ。

昨年、NHKBS「世界のドキュメンタリー」で「ヴィスコンティVSフェリーニ」というドキュメンタリー番組を放映していて(この番組、他のもかなり面白いです。NHKBSで繰り返し放映されている)、同時代のイタリアで全く作風の異なる二人が人気を奪い合い、スタッフも取り合いして対決姿勢を取ってきたという内容。フェリーニの映画はいくつか見ていたけどヴィスコンティは未見だったので有名な2作が見られて嬉しい。フェリーニはカラフルな悪夢、ヴィスコンティは贅沢な自己陶酔という感じかな。これくらい古い映画だとなかなか放映されないけれど、もっとほかのも見たい!

ペギー・スーの結婚
バック・トゥ・ザ・フューチャー中年女版、60年代を舞台に愛情再発見のほのぼの良い話と見せかけてネタ満載爆笑モノ。この時期、この俳優じゃないとありえない映画じゃないだろうか。楽しかった!また見たいけど他のターナー主演作も見たくなる映画。

シックス・センス
私、これでやっとハーレイ・ジョエル・オスメント主演3大作品コンプ。これが一番良かったかな。彼の出演作だと「感動泣ける話」だと思いがちだけどこれはホラー映画でした。もちろん、いい話だけどオチに向かうのが唐突な感じ。もう公開されてだいぶ経つししょうがないかな。

ガタカ
1998年の未来SF物。宇宙飛行士を目指す主人公と言っても設定はレトロ色が強く、イーサン・ホークジュード・ロウの上質スーツ姿が男前で素晴らしい。遺伝子で人間の優劣や職業が決まってしまうのはアニメ「サイコパス」(こっちが後)がちょっと似てる。ハラハラさせられて最後の方にも仕掛けがあり見応えがあった。

スリーピー・ホロウ
監督ティム・バートン&主演ジョニー・デップの1本。この二人だと何を見ても「シザーハンズ」良かったなぁとなってしまうのはまだ色々見ていないからなんだろうか。ジョニー・デップはイケメンともセクシーとも全然思えないのは一番色男な時期の映画とかカリブの海賊連作を1つも見ていないからなんだろうか。でもこれは珍しくメイクもナチュラル(笑)でコスプレ度も低く素に近いジョニー・デップ、普通に面白くて魅力的だった。

朝令暮改ランニング

3月頃から、近くの川沿いの遊歩道を軽くランニングしている。

と言っても、半分くらいは歩いて20分くらいの距離で、この前測ったらトータル1.5km。雨なら行かない。毎日ではなく、家事が済んでいる時だけ。

ランニングには否定的だった。中年以降のランニングは足腰に却って悪いとか、有酸素運動をしすぎると病気誘発要因になるとか。最初は次女が部活動で足りない分自主的に走りたいと言い出して、それに夫がつきあうようになって、少しでも走るといいぞ~と言われると余計に行きたくなかった。

でも、じゃあ私はウォーキングだけ、距離も飽きたら止めるという前提で外に出て、歩いているうちに走りたくなった。その時は夜8時頃だったので、私は帰宅したら片付けやら翌日の朝食の準備という家事がある。同じ距離を歩くと決めていたので、走った方が早いと思って走り始めた。すぐに息が切れて立ち止まるので最初は1/3も走れなかった。

ウォーキングではなくランニングをしてみると、自分の身体のガタガタっぷりがよくわかる。ちょっとスピードを上げると足がもつれる。遊歩道だから走る事以外、足を交互に転ばないようにしながら出す事しか考えないと、他の歩行者や自転車も通行するところなので危ない。こんなに走ることに集中しなければ走れなかったのかと最初は愕然としたが、この「他に考え事をしていない」状態が異様にハマった。

私の思考は私の性格や、多分好んで選び取って来た経験が構成している。思い出せる範囲で心は簡単にその時に戻れるけれど、肉体にはそんな選択肢がない。中年のヨタついたこの身体ひとつしかなく、いくら10年前よりも元気だとか、その頃より体重が軽い、筋肉量も多いとか言っても、肉体だけは完全不可逆だ。

実はそこまで難しくは考えておらず、なんとなく続いているのは多分「三日坊主上等」だと思っているせいだと思う。自分で自分が信用できない。今までだって、あれを頑張るとか、あれを達成するとか意気込んでも出来なかった。

行き当たりばったりで独立生活し始めて、家事を仕切って子供を育て、無理やりルールを作りながらこれで良いのかといつも疑問だった。多分いっぱい間違えてる。なのに、気がついたら私は親になっていて子供にあれこれルールを押し付けていて、それ本当に正しいのか考えた事ある?と思いながらもじっくり考えている余裕なんてなかった。

走って帰宅すると、弱いなぁ、色々間違って来たんだろうなぁ、知らないうちに周囲に迷惑や心配をかけたりしていたんだろうな、嫌な事を言ってきた人もいたけど、あの人が嫌な性格なのではなくて、私自身に問題があったからかもしれない…と思う。

走って弱い自分が出てくると、良いことも悪いことも全部過去のもので、この弱っちい身体だけとこの先あと何十年かは付き合って行かないといけないんだと真剣に思う。嫌だとだだをこねても10代の身体には戻れない。もう見栄を張っている余裕も時間もない。新しい事を始めるのに三日坊主で終わっても構わない。何なら朝令暮改でも良いと思う。

でも、この年になっても続けていると走れる距離が少しづつ伸びてくる。毎日走れるわけじゃないので数日経つとまた戻ってしまうが前より楽になっている。

気に入っているのは、何の道具も要らないし、運動する場所を考えなくてもいいところ。気が向けば距離を測るためのスマホを持って行くし、今後続けらて、距離が伸びたらもうちょっとそれらしいウエアが欲しいなとか考えている。
雨が降らなければ夕方になるとソワソワし始めて、7時頃まで明るいのでじゃあ10分だけ、今日は歩くだけにしてみようかと自分を騙して靴を履いて外に出る。

「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」Flags of Our Fathers(2006)

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 「硫黄島」の方を先に見て心が疲れたので、だいぶ後になってから「父親たちの…」の方を見た。

この2作は、アメリカでは有名になった「硫黄島星条旗」というアメリカで有名になった報道写真から派生したアメリカ側と、日本側の物語。

www.dailyshincho.jp

父親たちの星条旗」=写真に映ったアメリ海兵隊員たちがプロパガンダに巻き込まれて人生を狂わされる話

硫黄島からの手紙」=硫黄島で最後まで抵抗して散った日本軍兵士たちの物語

どちらも悲惨。

硫黄島からの手紙」はアメリカ人のイーストウッドが監督したとは思えないほど「日本的戦争映画」だった。
主人公が嵐の二宮くんで、ジャニーズ映画か…と思って見始めたのだが、その二宮くんにしろ、世界のケンワタナベや伊原剛志加瀬亮中村獅童と「いい具合にメジャー」なキャスティングのおかげで安心して見られる内容だったように思う。

おそらく、私は好んで見ないのだが戦争映画、任侠映画のように映画の中で人が死ぬ事が多い映画だと、無名でやけに目立つ人がいると「あっこの人悲惨な死に方するのでは…」と思ったりする。要するに有名芸能人の役なら悲惨な目には遭うまいよ、という見る側の「芸能界の大人の事情を暗黙に了解している」という割とつまんない話ではある。でも、どう作ったって悲惨な絵面にしかならない日本軍の硫黄島の映画を見ようとしてもなるべく悲惨な絵面は見たくない。そういう実録ものはドキュメンタリーで補完すれば良い。
二宮くん演じる主人公は一歩兵で、本土から遠く離れた硫黄島に連れて来られ、もう食料もなく、敗戦ムードが強くなる中で、置いてきた身重の妻とももう会えないと思っている。ただ、メンタルが健康というか平均的若者で、軍人、兵士という自覚がほぼない様子。だから自決を迫られても何とか回避しようとする。この二宮くんの役がとても普通で泣かせようとしてはいないんだな、と見ていて警戒心が解けた。

夏になると戦争に関連するドラマが放映されて、よくある過剰演出、過剰演技が苦手だった。内容的にも違和感はいろいろあったが、今はプロパガンダとかマスメディアの指向うんぬんを語るところではないので省く。

この映画ではむしろテンプレ的「悪い日本軍将校」の中村獅童が何かと怒鳴り暴力を振るい、自分の隊が危うくなると集団自決を強要するのが一人浮き立っていた。栗林忠道役の渡辺謙、西竹中佐役の伊原剛志あたりも格好良すぎる感じはあったが、この映画の原作になるのが栗林の絵手紙をまとめた本であったので合っていると思った。

終盤は息が詰まる思いだった。食料が尽き、仲間がバタバタと死んで行き、退去を重ねて追い詰められるように摺鉢山へ向かう主人公たち。どう見ても、誰一人生き残れそうにない。栗林が殺伐とした中で回想される、戦前アメリカで過ごし受け取った記念の刀にまつわる穏やかな交流場面にこれはアメリカ映画だったんだ、と思った。逆に日本での回想がいかにもセットという感じだったのもあるかもしれないけど、それにしてもきちんと日本人の心情に沿った悲劇映画になっていると思う。 

「父親たちの…」の方は、その硫黄島に圧倒的勢力で乗り込んだものの、主人公たちの隊は日本軍の抵抗や、味方の一斉攻撃の犠牲になったりもし、かなり失われた。ようやくの思いで制圧した後に、当初は大した意味もなく、しかし疲れた身体を引きずって荒野の山の上に立てた旗の写真が、アメリカ全土で知れ渡り国威発揚に良いように利用されていく。

硫黄島からの手紙」が、ほぼ時系列に沿って話が進んで行くのに対し、こっちは一旦見終わってから冒頭を見直さないとわからないほど、様々な回想がランダムに入り込む。おそらく、兵士たちのフラッシュバック的な意味があるのだろうと感じた。思い出したくないのに、そうはさせてくれない。高いところに立たされ、スポットライトを浴び、マイクに向かうたびに彼らの脳裏には血まみれで死んで行った友人や顔見知りの姿が何度も立ち上がっていた、という事なのだろう。

写真はしかも、勝利の時に掲揚されたものではなかったし、その場に居た兵士たちは後ろ姿で判然としない。うち一人はネイティブインディアン出身で、英雄扱いされても飲食店では立ち入りを断られたりするうちに酒に溺れ犯罪者となり、人知れず死んで行く。

というくだりを見ていて、アポロ計画の宇宙飛行士のドキュメンタリーを思い出したりした。この話ほど悲惨ではないだろうが、時の人となり、英雄視され、国中を連れ回された挙句いつの間にか別のニュースに話題は変わり、忘れられる。あるいは他の、報道写真1枚がアメリカに多大な影響を与えたというあの話、この話。

今はインターネットがあって、報道する側がどうやって情報を操作するか、見えないところでどういう思惑がはたらいているか推察されて、皆用心深くなっていると思うがこの時代の人たちはチョロいというか、それだけ新聞、ラジオ、テレビの影響が想像もつかないほど大きかった事を思わせる。

今の時代でも大統領選の経過などを見ていると、日本人の私からはとてつもなく大掛かりで大変な事のように感じる。日本が狭いとか簡単とか言うつもりもないが、日本でさえ年中ニュースでドタバタしているのに、もっと広くもっと多く、他民族で暮らしていて、国の歴史は浅くても移民たちの元の国事情などが複雑に絡み合って出来ているアメリカ…気が遠くなる。しかし実際の政治活動や、宗教家の布教活動などは結局現地へ足を運ぶ事がいまだに有効というのは興味深い。どれだけ労力が費やされるのだろう。「時の人」に期待されるものの大きさは時代が違うとは言え想像するのも恐ろしい。

硫黄島での色味を抑えた荒れた光景と、綺麗な揃いのドレスで彼らを称える歌を歌うコーラスの女性たち、華々しいパレードの極彩色が対照的。一番嫌がっていたネイティブ出身のアイラが耐えきれずに「茶番だ」と食ってかかると、イベントを国から任されているプロモーター(?なのかな、多分)が「これがショービジネスだよ」と言う。
ショービジネス=アメリカの病気なのかもしれない…などと思ったりした。

 クリント・イーストウッドは俳優として好きで、友達に映画好きが多かったので、よくつるんで文芸坐などの2本立て、3本立てリバイバル上映をしている映画館に行った中にも、彼の出演作は多くあったと思う。その当時は愛人ソンドラ・ロックとラブラブで、映画の中でも恥ずかしげもなく二人の濡れ場を入れたりして、別れた後彼女に訴えられたのも知っていたので、映画を作ったり年取っても出演したりと意欲的とされる評価にも、いや結構俗物だよね?と思っていた。でも、この2本はどっちも大真面目で誠実な映画人の視点を見たような気がする。スタッフも良かったのだろうと思う。主役級の俳優たちは、こちらはあまり知られた人は出ていない。同じ隊の仲間に「リトル・ダンサー」の主役だったジェイミー・ベルがすっかり大人っぽくなって兵士として出ていたのくらい。

 

「レナードの朝」Awakenings(1990)

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ロバート・デ・ニーロはいくつか映画を見ているけど好きな方じゃないと思う。本人がそれを売りにしているわけでも無かろうが、演技のために努力する逸話ばかり先に聞いてしまい、個人的にはそういう情報は要らんなぁ、と思ってしまう。完璧主義なんだろう、そこまでしないと役に入り込めない人なんだろうとは思うが、大抵熱演すぎてお腹いっぱいになってしまう。

でも「レナードの朝」はそんなデ・ニーロの全力演技がなければこんなに感動出来ただろうかとは思った。デ・ニーロの役は、少年の時に原因不明の発熱以来、脳炎を起こしてほぼ寝たきり・意思表示もままならない状態でアラフォーになった患者。最初、利発な少年レナードがある日熱を出してしまう場面から始まるので、その30年後年老いた母親におむつを替えてもらう、身体だけはすっかり大きいおっさんになった姿が何とも痛々しい。

もう一人の主役・セイヤーという薬学専門の医師(ロビン・ウィリアムス)の考えで投薬した薬が効いて、同じ病気で収容されている患者たちが次々と自我と身体の自由を取り戻す。他の患者役の人たちも、表情や自由の利かない身体の表現など凄まじいの演技で、それだけに薬が効いてから健常者へ戻っていく画面的効果がすごい。

皆数十年という時を失っている。身近にいた人を失っていたり、外に出れば世の中が変わっている。彼らがダンスバンドにリクエストする曲は遥か昔に流行った懐メロ。しかしそれを自分の足で踊れる喜び。これから失われた時間を取り戻せるという意欲に溢れている。

しかし薬の効果は薄れて行き、快活で賢い人格を取り戻したレナードも、次第に再びぼやけて行く自分に苛立って怒りを当たり散らした後に、諦める。医師と記録を取るために録画している最中に発作を起こし、止めようとするセイヤー医師に今の姿も録画しておけ、と言う。

レナードは別の患者の見舞客のポーラという娘に恋をして、病院の中でささやかなデートをするのが楽しみだった。それも諦めなければならなくなり、不自由さに侵され始めた姿で、元気だった時のように身だしなみを整えて、病院の食堂で最後のデートをする。

もう言葉もちゃんと喋れず、やっとの思いで最後の握手を差出したレナードに、言葉とは違う形で応えるポーラ。名場面。


Scene from Awakenings (1990)

ダンスの場面で既に泣きそうになってしまうが、場面が切り替わって病院を出てバスに乗り込むポーラを、大きな身体で足を引きずって鉄格子の中から見送るところで涙腺崩壊する。もう死ぬまで外の世界はすべてこの鉄格子越しに見るしかない。一度は出られると希望を抱いて打ち砕かれた。ひとときあった心の交流もやがて忘れてしまうだろうが、それでも目に焼き付けて置こうとするレナード。

――というところで、私のリアルライフで次女が帰宅したのには参った(笑)。ちょうど部活引退したり、学校行事がランダムだったりと帰宅時間が読めない時期だったんだな。迂闊だった。えらい心配された。まあ家族で見ていて何かが刺さって恥ずかしながら泣いてしまう、ということはたまにある。その次女はゲーム「大神」をやりながらクライマックスで泣いていた。長女が泣いてるところはあまり記憶にないが、そういや彼女が「おジャ魔女どれみ」を見ていた時代、シリーズ最終回で子供の後ろで画面が見えなくなって振り向くなよ~今振り向くなよと思っていたことなんかもありましたわ。 

レナードはその後、最初に登場した時のように、母親に介護されながら病院で過ごし、虚ろな目で何を考えているのか、そもそも意志があるのすらわからない状態に戻っていく。薬が効いたとぬか喜びしたのは患者や家族たちだけでなく、投薬したセイヤー医師にとっても失意だったが、それまで孤独を好んで心を閉ざしがちだったセイヤーが、最後にずっと協力してくれていた看護婦をお茶に誘うところで話は終わる。

 

似たような話として、SFの名作「アルジャーノンに花束を」を思い出させる。私は実はあれを読んで(もちろん、翻訳だけど)あまりピンと来なかった。「アルジャーノン」の場合最後の一言に万感込められているらしいのだが、途中も個人的には読みづらくて、感情移入出来なかったから最後の一言が響かなかったのかも知れない。そう言えば映画「風と共に去りぬ」の、最後の決めセリフで皆えらく感動するものらしいが、スカーレット・オハラが単なる気まぐれワガママ女に見えてしまったせいだと思う。どちらもだいぶ前だったから、今読んだり見たりしたらまた違う感慨があるかもしれない。

その時の気分とか、あまり周囲からいいよ~泣けるよ~と聞いて読んだり見たりすると、期待し過ぎたり身構えたりしてしまうあまのじゃくな気質のせいもありそうだ。名作に素直に感動出来るかどうかは運とか縁があるように思う。

その点「レナードの朝」はデ・ニーロの過剰演技を警戒していたのに、すっかり彼の演技に落ちてやっぱりすごいなと思えたのだから、やっぱデ・ニーロはすごい(語彙力)。おそらくは、辛い話を淡々と展開させる演出と、ロビン・ウィリアムスや看護婦役の人、他の患者たちの演技など様々な要素はあったと思う。ロビン・ウィリアムスはこの映画の前に「いまを生きる」を見ていて、あれも希望、感動、失意と一片の救いの物語だった。憂いを帯びた青い眼、寂しそうな微笑みが印象的だがそれだけに悲しい事が起きる予感しかしない。近年自殺してしまったというイメージが更に寂しさを強調する。

youtubeにはDVDのボーナス映像だったのだろうか、二人揃ってのインタビューがあって、実に楽しそうに話している。この手の映像や裏話公開、あまり好きじゃないんだけどこの映画に関してはほっとした。


Robert De Niro and Robin Williams - outtake from Awakenings - HQ

ロシュフォールの恋人たち (1967) Les Demoiselles de Rochefort

久々に映画感想など…NHKBSで「シェルブールの雨傘」と一緒に放映されていたのを録画しておいて、やっと見ました。ここへ来て、ですます調から切り替えたのが自分でも調子よかったんですが、さすがに感想だと何様感が半端ないので口調変わります。


昨年大ヒットした「ラ・ラ・ランド」の監督が多大なインスピレーションを受けた作品だそうで、実は2本とも見てませんでした。私は至上主義ってほどじゃないけど昔のハリウッドミュージカルが好きで、今になって当時の現場の酷さ、差別があったことなどが話題になっていたりしますが、そんな金と権利と女みたいなギラギラした部分も含めてのハリウッド映画が好きです。見るだけだからね。

フランス産ミュージカルのこの2作を今まで見なかったのは、単に見る機会がなかったというのもありますが、多分そういう点ユルそうだなと、歌もダンスも見ていて満足出来ないだろうと思って積極的に見ようとしてませんでした。実際に見たらやっぱりその通りで「うわっ…上手くねぇ」と正直思いました。


Chanson et paroles des soeurs jumelles (LES DEMOISELLES DE ROCHEFORT)

何度見ても最初の歌い出しが下手(笑)ここに至る場面で姉妹は音楽とバレエで生計立ててるという設定で笑いました。笑うところじゃないとは思いますが、笑って良いところだとは思います。

ですが、見てるうちに楽しくなってきて、おしゃれな妄想の世界に浸れば良いのだと理解しました。ディズニーランドへ行って、中は人間が入ってるんだーといちいち考える必要ないのと同じ。

最初は「この娘たちはカスミでも食べて生きてるのか」とかつっこみながら見ていたのが、「あっ…本当にカスミっていうかフワフワの綿菓子とか食べて生きてそう…」とか思いました。

ちょっと前に「けものフレンズ」というアニメが話題になっていた時、ネットの感想で「知能指数が下がる」と言われていましたが、この映画も「カワイイ~」「おっしゃれ~」と語彙力は2つで良い感じ。

予備知識なく見始めたので「ウエスト・サイド物語」のジョージ・チャキリスや「雨に唄えば」のジーン・ケリーが出て来て驚きました。チャキリスは相方の男子と二人で踊る場面が多く、やっぱ上手いです。どうしてもチャキリスの動きに目が行く。


Michel Legrand - Nous voyageons de ville en ville

「ウエストサイド物語」では冒頭のダンスなど鮮烈な印象を残す人ですが、屈折した性格、思ってるよりあっさり画面からいなくなってしまうので、楽しそうに伸び伸び踊る場面が見られて嬉しい。

ジーン・ケリーは姉妹の姉の方とお互いに一目惚れする役。私のジーン・ケリーの印象は「いいから俺様の素晴らしいダンスを見ろ!見ろ!見ろ!」って人で、捉えようによっては愛嬌もあるので嫌いになれませんが、大抵来るぞ来るぞと身構えていると空気読まない大回転、カメラが寄ってドヤ顔決めポーズ…というやつがまさかこの年で来たらぶち壊しなのでは…とちょっとハラハラしてました。

さすがにこの頃はアラフィフで落ち着いて大物ゲスト扱いですし(海外のポスターは中央にケリー、両脇に姉妹)、あまり上手いとは思えないドヌーヴの姉のフランソワーズ・ドルレアックを優しくエスコートするダンスに終始していた、ように見えてホッとしました。私がホッとする必要もないんですが。そういえばケリーは爺さんになってから「ザナドゥ」でオリビアニュートンジョンと一緒に踊ってましたね。


Gene Kelly & Françoise Dorléac

ちょっと踊り足りなさそうにも見えたりして。

この映画と前後して「シェルブールの雨傘」も放映されていたので録画して見ましたが、いやーカトリーヌ・ドヌーヴが本当に綺麗。氷の人形のような整った顔が笑うと唇がむにゅーっと両脇に伸びて、えっ笑うの…笑うとこんな顔になるの、って私でもドキッとしたので、映画の現場にいた男性たちの心労が思いやられる。

「世界的美女の最大瞬間風速的『旬』」(言ってて何これですけど)を見ている思いがしました。

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同じ撮影日っぽいのでお澄まし顔・笑顔がある写真探して来たんですが、顔向きや光の当たり具合や色調が違うとは言え、なんか別々の人っぽくないです?どっちも綺麗。

終盤、姉妹が地元のお祭りに出て、真っ赤なスパンコール衣装で歌って踊る場面があって、舞台に出ていくその背中の綺麗な事。肉感的じゃないのに目が惹きつけられるって何だろうと思ったりしましたがひとえに「世界的美女の(以下略同上)」なんだなと思いました。

ドヌーヴと言えば、近頃のmetoo騒動で、ちょっと批判したら逆に炎上してしまったらしいですね。経緯を読むと、真っ向から反対してるわけでもないですが、積年の習慣がようやく悪いことと認められつつある中で、水をかけちゃいけない局面だったような気はします。何よりドヌーヴクラスの著名人・美人が言うと影響力が強すぎるという事もあったのではないかと。

あと、私も詳しいわけじゃないですがフランスの映画見てると、倫理的部分で戸惑う事が結構あって、お国柄が独特でアメリカとも違うし、まして私みたいな日本人には理解出来そうもないとも思います。

最後に、思い出したのが映画の食事中?というかテーブルを挟んで会話する時に、発言する人物の顔の正面から捉えた映像がぱっぱっと切り替わるの、小津安二郎の映画みたいだと思いました。シェルブールの雨傘の方でも同様の場面があります。監督で一緒に検索してみたのですが関連性は特になさそうでした。まあそれだけで小津オマージュとは言えないんでしょうが、私は小津映画でのそれが結構好きなのでちょっとニヤっとしちゃいました。何なんでしょうね、「明らかに撮影時はオンタイムで会話してない」感が非現実的で良いのでしょうか。